キャリア教育ヒントボックス
誰も行かない道を行く反逆と挑戦のマイ・ウェイ
(株)光岡自動車 会長
光岡 進(みつおか・すすむ)さん
眼光鋭く
行動素早く
オリジナルカー開発の原点となったゼロハンカーは、マイクロカーとして現在も生き続け、これからの時代に向けた電気自動車開発のベースともなっている。
「営業嫌い」を自認する光岡さんだが、その事業センスは非凡そのもの。かつてメーカーが厄介者扱いしていた中古車を季節商品、地域商品としてとらえ、全国的な買い取り/販売網の中で適切な商品を適切な時期に適切なところで販売するビジネスモデルは、今日に至るまで光岡自動車の大きな柱となってきた。
着実な成長の余勢を駆って、光岡さんの新しい挑戦が始まる。それは偶然の出会いがきっかけだった。
「ちょうど中古車を仕入れに大阪に出かけたときだったかな。町中でやけに小さい車が走ってるのを見かけたわけ。『ありゃ一体何だ』ってんで、追いかけて運転手に問いただしてみたんだよ」
見たこともないその小さなクルマは、イタリア製の小型自動車だった。エンジンは原付と同じ50cc。前例のなさを逆手に取り原付としてナンバーを取得したものだったのだ。
サラリーマン時代から車両関係の法律にはめっぽう強くなっていた光岡さんだが、これにはビックリ。早速関係法規を調べ上げると共に、地元の陸運事務所へと駆け込んだ。そこでは一蹴されてしまうが、今度はすぐさま霞ヶ関の運輸省(現・国土交通省)へと乗り込む。
「そうしたら、さすが本庁の役人ってのはスゴイね。その場でざざっと交通六法を開いて、『光岡さん、そりゃ問題ないよ。大丈夫』って言ってくれたんだ」
こうなればあとはもう一直線。1982年に発表された光岡初の自社開発車「ゼロハンカー・BUBUシャトル」は、原付免許で公道を走れる自動車として大好評を博すことになった。
既成と規制
その打破の果てに
現在の光岡自動車の主力車種は、国内メーカーの完成車に、独自デザインの外装を施したもの。原型となったクルマが想像できないほどの個性派ぞろいだ。
こうして一躍世に知られる存在となった光岡自動車だが、好事魔多し。運輸省のお墨付きを得ていたゼロハンカーが、警察の注目するところとなり、安全運行の確保などを名目とした免許制度の改正が行われるに至った。かくしてゼロハンカーは一般の自動車と同じ普通免許なしには運転できなくなり、急激な売れ行きの減少が会社を直撃したのである。ユーザーの声を集めて陳情したり、公聴会でその合理性安全性を訴えるなど全力を挙げた光岡さんだが、その方針を覆すことはできなかった。
「悔しかったよ。そして、お役人や議員さんにすがってもダメだということも分かった。人頼みじゃなくて、結局自分で活路を切り開かないとダメなんだ」
とは言え、会社にとっても痛手は大きく、一時は光岡さんも放心状態に。そんなときに奥さんから「あんた、顔が仏さんになっとるよ」と言われたという。覇気がない、生気がないという妻の言葉に、光岡さんの情熱は再燃する。
以後、歴史的な名車の姿をモチーフにしたレプリカカーの制作や、メーカー製の完成車を改造し、より魅力的な外観を持たせたカスタムカーの開発・販売を通じて、光岡自動車はゼロハンカー時代以上の存在感を発揮するようになっていった。そして1996年、自社開発の乗用車として国の型式認定を取得した『ミツオカ・ゼロワン』により、ホンダ以来約30年ぶりとなる、国内10番目の自動車メーカーとなったのだった。
自分の信じた
道を行け
「いろいろな障害はあって当たり前なんだよ。人がやらないことをやろうとしてるわけだからね。苦労の中でも、信じて努力すれば必ず道はあるんだ」
そう語る光岡さんが、自社で欲しい人材としてあげたのは「優等生ごっこを抜け出せる人」だ。
「ウチみたいな田舎の会社は、他がやらないことをやらなくちゃ生き残れないからね。優等生的な仕事で大企業に勝てるわけないんだから。『こんなことやっていいのかな』『これってやりすぎかな』と思えるようなことにどんどん挑戦できるような人が大事なんだよ」
2006年、光岡自動車は『大蛇(オロチ)』と名付けた新型車を発売する。その名の通り眼光鋭くどう猛な大蛇を思わせるそのスタイルは、既存の自動車メーカーからは到底発想不能なものだ。
発売間近の大蛇(オロチ)は、その名の通り迫力あふれるデザインが特徴。「あなたの会社じゃスーパーカーは作れないでしょ」という奥さんの一言で開発がスタートしたというのが光岡さんらしい。
「大蛇の基本コンセプトは『ワル』。それも、昔の不良みたいに弱きを助け強きを挫く一匹狼なんだ」
いたずらっぽい瞳を輝かせてそう語る光岡さん。夢に向かって進むその道に、終わりはない。
■光岡自動車
http://www.mitsuoka-motor.com/