キャリア教育ヒントボックス
出会いが僕を育ててくれた
J2・徳島ヴォルティス MF
秋葉 忠宏(あきば・ただひろ)選手
そしてJリーグへ
秋葉選手が高校3年となった93年、ついにJリーグがスタート。日本中が一大ブームに巻き込まれていく。
そして秋葉選手の元には、地元千葉のJリーグチーム・ジェフ市原(当時)から入団のオファーが届いていた。
「もちろん自分の気持ちは決まっていました。母には反対されたんですが、父は一言『やりたいならやってこい。ただ、帰って継ぐ家があると思うなよ』って言ってくれたんです。あの一言で背中を押された気がします」
秋葉選手の実家はコンビニエンスストアを営んでいるが、父の一言は、そんな家業を逃げ場にすることなく、大成するまで頑張れ、という激励であったのに違いない。そして彼は、夢に見た「好きなこと(=サッカー)で飯を食う」Jリーガーとなった。
一人でここまで来た
わけじゃない
Jリーグ入りした秋葉選手は、それまで培った堅固な土台の上で、さらに時代の追い風を受け突き進んでいく。ワールドユース代表となり、10代にして世界と戦う機会を得たのだ。
しかし、好事魔多し。ユース代表チームの練習中に、足首を複雑骨折するというアクシデントに見舞われる。それまで大きな負傷のなかったサッカー人生で初の大きなケガだった。
「いや、あそこで大怪我したのも、今にして思うといい薬になってますよ。選手として長く活躍する上では、大きなケガをしないこと、ケガと上手くつき合うことが大事ですが、そのことをプロのスタートで学べたんですから」
はたして、この負傷を克服した秋葉選手はユース代表として95年のカタールワールドユース大会全戦に出場し、さらには96年、アトランタ五輪にも日本代表として出場を果たしたのだった。
秋葉選手の姿勢は常にポジティブだ。そんな意思の保ち方はどこから来ているのか、私たちは尋ねてみずにいられなかった。
「僕のまわりにはいつもいい人たちがいてくれたんです。僕は恵まれていた。本当にそう思います」
負傷に見舞われたとき、監督との折り合いが悪かったとき、試合に出られない日々が続いたとき……。
苦しいことは山ほどあった。けれどもくさってしまったらそこで終わる。どんな状況だろうと、誰が監督だろうと試合に出られるような選手に自分がなればいいじゃないか。そう教えてくれる人たちとの出会いがいつもあったと秋葉選手は言う。
「ジェフ(市原)ではリトバルスキー、(アビスパ)福岡では都並さんみたいに、そういう厳しいことをハッキリ言ってくれる先輩たちがいたんです。プロの世界だからそんなこと言わない人の方が多いんですよ。だって全員がライバルなんですから。そいつが勝手にダメになっていくなら、それで自分の出場機会が増えたりするんですからね。でもそんな損得勘定抜きで、本音のアドバイスをしてくれる人たちと出会えた。だからここまでやってこられたんだと思います」
部員の自主性に任せてくれた中学サッカー部の顧問も、プロ意識を植え付けてくれた布監督も、そして共に戦ったチームメイトや対戦相手のすべてから「たくさんのものをもらってきた」と秋葉選手は静かに語ってくれた。
とことんまで戦う
そしてそのことを伝えたい
そんな秋葉選手は、今、サッカー指導者としての勉強を始めている。現在30歳。サッカー選手としてベテランの域に入りつつある中で「引退」の二文字を意識し始めているのだろうか。
「いいえ。僕はとにかくボロボロになるまでとことん現役を続けたいと思っています。ですがいつかは、自分がサッカーからもらったものをサッカー界に返したい。現役にこだわるのは、選手でなければ体験できないことがまだまだあると思っているからです。いつか指導者になる日が来るなら、そのとき伝えられる経験を、できる限り選手として体験しておきたいんです。そのためにも、僕はもっともっと現役でいたいんですよ」
人の指示に従うプレーを嫌って野球よりもサッカーを選んだ秋葉少年という若芽は、今、自分だけでなく若いチームメイトやチーム全体を、そしてサッカー界に視線を向ける太い樹木へと成長した。
「僕がチームから何を期待されているかは分かっています。監督と選手、会社と選手の橋渡しも自分の仕事だと思っていますし、若いころとは違って、俺が俺がというプレーをしているわけにはいかないですよね」
そう語る秋葉選手には、すでにいちプレーヤーを越えて、サッカーをピッチの中からも外からも見据える視線が備わり始めているように思われた。そのまなざしは、これからのさらなるピッチ上での活躍を支えると共に、いつの日か指導者としても多くのプレーヤーに注がれていくに違いない。