キャリア教育ヒントボックス
料理は思いやり 一番好きなことを仕事に選んだ幸せ
オーナーシェフ 長尾 和子さん
マスメディアが「魅せる」料理を生み出した今でこそ女性の料理人も珍しくないが、長尾さんがオーナーシェフとして六本木でお店を始めた1978年当時は、料理人=男性が当たり前だった。そんな中で、シェフとして第一線で活躍し続けてきた長尾さんの、これまでとこれからを伺った。
「母と一緒に台所に立つのが好きでした」
東海道本線の二宮駅から、閑静な住宅街を歩いて数分。細く、ゆるい坂道を上っていくと、不意に海の青さが目に飛び込んでくる。現在長尾さんがオーナーシェフを務める「マリークロード」は、そんな場所にある。
「小さい頃から、母と一緒に台所に立って、料理を作る母の手伝いをするのが好きだったんです」
くりくりした大きな目に、ピンと伸ばした背筋、そして少年のような笑顔。長尾さんは、料理を作り始めたキッカケを語り始めた。
「その頃、飼っていた犬の食事づくりは私の役目でした。犬の体調を考えながら料理を作ることが楽しくて、おいしそうに食べてくれることが嬉しくて」
料理人にとって、何より大切なものは「舌」であると長尾さん。
子どもの頃、ひと月に一度は両親に連れられ、外で食べた良質な味。
そして雑誌のレシピを見ながら色々な料理を作ってくれた母の味。
幼い頃からの様々な「舌」の経験が、今の長尾さんを形作っていると言っても過言ではない。料理人になりたいという夢を持つ子どもには、色々な味の経験をさせることがその可能性を広げることになると長尾さんは言う。
自分と同じ味覚の人は10人に3人
「料理をおいしく作るコツは、愛情と思いやりです」
自分がおいしいと思うものを同じようにおいしいと感じる人は、10人に3人だという。
その割合が少しでも高くなるように、食べる人の気持ちを考え、体調を考え、気を配り、雰囲気を作り、塩加減を調える。食べる人を思いやること、それがおいしさのコツだと長尾さん。
「父からは常日頃、思いやりが大切だと言われていました」
一番上に兄、次いで姉が2人。戦後の第一次ベビーブームの最中、少し年の離れた末娘として生まれた長尾さんは、両親からかわいがられ、奔放に育てられたという。勉強が出来ることよりも、身の回りのことを1人できちんとこなせることを第一に育ててくれた両親に、長尾さんはとても感謝している、と語る。
食べることに対して貪欲であること
旬の野菜を取り入れたランチメニュー。写真上の「8種類のポタージュ」は、仕上げに生クリームを入れる以外、すべて野菜の水分だけで作られているという。
「学生の頃から、興味があるのはオシャレより食べることでしたね」
好奇心が強く、食べることに対する探究心が旺盛な子どもは料理人に向いている。そう話す長尾さんは、高校の頃から料理学校に通い始める。
最初にフランス料理を、更に中華料理と日本料理を習った。そうして教室で教わった料理を、復習のために家で作り、家族に評価してもらう。
そんな日々の繰り返しの中で、本場のフランス料理とはいかなるものか、知りたい、食べたい、作りたい、食べてもらいたい、おいしいと言われたい……と、興味は募るばかりだった。
20歳の時、5年間通い続けたフランス料理教室の助手を務めるようになり、22歳の時には自らフランス料理の教室を開くに至る。教室は順調で、生徒の数も徐々に増え、充実したものだった。しかし、やはり本物のフランス料理を学びたいという意欲が勝り、兄の知人を頼って、まずはシカゴで学ぶことになった。長尾さん24歳の時だ。そこでも、学ぶほどに本場フランスへの憧れは増すばかり。本場で学び、食べ、知りたい。想いは募り、いよいよ25歳にして、長尾さんはフランスはリヨンへと渡ることになる。
恵まれているからこそ惜しまぬ努力
シカゴでのホームステイの間に、料理学校で稼いだお金は使い果たしていた。両親を説得し、父からの金銭的な援助と、リヨンに住む兄の友人の助けを借りて始まった不安な暮らし。それでも長尾さんは、本場フランスで修行ができる身の上を恵まれていると自覚し、だからこそ自分を磨こうと考えたという。
フランス語を勉強しながら、コックとして雇ってくれる店を探す毎日。ここぞと思った店に入って食事をしては、雇ってほしいと頼み、断られる日々。半年間も仕事にありつけなかった長尾さんが、やっとの思いで得た職場は、リヨンの駅から程近い、「クリスチャン・ブリヨー」という1つ星レストランだった。
「カズコ」という名はフランス人には呼びづらい発音だからと、そこで付けられたあだ名が、現在の長尾さんのお店の名になった「マリークロード」だ。
女性としても小柄な長尾さんだが、それを弱点にせず、むしろ機敏に動けることを武器にし、日本人ならではの丁寧さと器用さで、スポンジに水が染むように知識と技術を吸収していったのである。