キャリア教育ヒントボックス

OLから通訳に転身 
〜あこがれを現実に変えた 夢を信じ続ける力 1/2
通訳  柘原誠子さん

グローバル化の加速で、英語への関心が高まるなか、英語を使う職業の代表とも言える通訳への人気が高まっている。フリーランスの通訳として活躍する柘原誠子さんも、この魅力的な職業にあこがれた一人。現在は世界を飛び回る多忙な日々を送るが、第一線で活躍するまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。

華やかな表舞台を支える 地道な下準備と強い精神力

笑顔で語る柘原さん

外国の要人や経済人、海外のスター、スポーツ選手といった今をときめく人々とインタビュアーとの間に立ち、互いの意思疎通をサポートする通訳という仕事。メディアを通して見る知性あふれる姿に、多くの人が魅了さるのもうなずける。しかし、華やかな表舞台の陰には、地道な努力と日々の鍛錬がある。

フリーランスの通訳になって13年目になる柘原(つげはら)さんは、「通訳は語学のプロですが、各分野の専門家ではありません。しかし、依頼の内容は多岐にわたるので、毎日が勉強の連続です」と語る。

現在は、企業が株主や投資家に対し、投資判断に必要な情報を提供するIR(Investor Relations)関係の仕事が全体の9割を占めるが、業種業態によって必要な知識はさまざま。

柘原さんは 「通訳の仕事は事前に資料を読むことから始まります。ときには1000ページ以上の膨大な資料を読むこともあり、わずか1時間の仕事のために丸1日充てることも珍しくありません。通訳という仕事の内実はかなり地味な仕事なんですよ」 と打ち明ける。

専門書や新聞、雑誌などで背景となる知識を吸収し、業界用語については、独自の単語帳を作成する。そうした下準備があってこそ、瞬時の判断力が発揮されるのだ。

プレッシャーと闘う強い精神力も、プロの通訳に不可欠な資質。フリーランスの通訳は基本的に、その日初めて会うクライアントと仕事をともにすることになるが、相手が常に親切な人だとは限らない。また、現場で緊張状態に陥ると、実力を発揮できないこともある。

実際、柘原さん自身、普段ならなんでもない単語が聴き取れなくなったり、メモをとる手が震え、自分が書いた字が読めないといった経験をしたこともあるという。こうしたプレッシャーから、駆け出しの頃は、翌日の成功を案じるあまり、体調を崩すことが多かった。

「毎日が受験生の気分ですね。いまだに不安と緊張で眠れない夜もあります。でも、その反面、毎日が変化に富んでいて、マンネリにならないのが通訳という仕事の魅力。うまくいかない日もありますが、最近はくよくよと落ち込まないようになりました」と柘原さん。
とくにフリーランスの通訳は、スケジュール管理から料金交渉まで、たった一人でこなさなければならない孤独な職業。誰の後ろ盾もない、まさに“一匹狼”なのである。

意志を貫き通し 人生を変える留学を体験

4歳の誕生日を迎えてすぐに、ピアノのレッスンに通うようになった柘原さんは、中学を卒業する頃まで、漠然と音大への進学を考えていた。 しかし、高校生になると留学への思いが日増しに強くなっていく。

柘原さんは「英語の上達よりも、親元を離れて自分一人でどこまでやれるか試してみたいという気持ちが強かったのだと思います。 しかし、父は猛反対。留学の話を持ち出してから、実に半年間、まったく口をきかないという冷戦状態が続きました」 と当時を振り返る。

持ち歩くカバンは10kgを超えることも…

最終的には柘原さんが意志を貫き通し、ついに念願のアメリカ留学を実現。留学先はインディアナ州のニューキャッスルという、人口2万人の田舎町に決まった。

夢にまで見た留学だったが、最初に柘原さんを迎えたのは、想像もしなかった厳しい現実だった。

ホストファミリーは毎日けんかばかり。怒声のなかで聞こえる“Seiko”という音に、自分が原因で争っているのかと胸が痛んだ。夕食が出ない日も珍しくなく、通帳が盗まれ、勝手に預金が引き出されていたこともあった。
「留学団体に掛け合って、ホストファミリーを変えてもらえたのは1カ月後。その間はホームシックにかかり、毎日、早く日本に帰りたいと思っていました」

しかし、次に柘原さんを迎え入れてくれたファミリーは、貧しいながらも、心根の優しい人たちだった。 また、学校の授業で履修したコーラスの授業で、クラスメートとの友情も深まり、「いつしか、自分がアメリカ人になったように錯覚するくらい、生活にとけ込んでいました。1年後、帰国の日が近づくにつれ、帰りたくないという思いが強くなり、毎日泣いて暮らすほどでした」

1年間の留学経験は、柘原さんにとって、かけがえのない充実した時間となった。そして、この頃から世界の人々と交流することができる通訳という仕事に夢を抱くようになる。